「ほどける耳」建仁寺塔頭 両足院

Feb 15, 2018( Art,

もう2ヶ月前の話になってしまいますが、12月にお友達のアーティスト、大田高充さん主催の「ほどける耳」という催しに行ってきました。

場所は建仁寺塔頭 両足院。京都東山の建仁寺の境内にある寺院です。建仁寺というと、数年前に同じく建仁寺の塔頭、禅居庵で行われたFOILさんの企画展を見に行った事があります。祇園のすぐ近くの割には境内はそこまで混雑しておらず、ちゃんと「お寺の空気」があって、好きな場所のひとつです。

大田さんのパフォーマンスを見たい!(聴きたい)というのは言うまでもありませんが、会場がお寺というのも、参加の動機の一つでした。
母の実家が浄土真宗本願寺派の寺院で、子供の頃、長期休みはいつもお寺で過ごしていました。お寺が好きで、仏さまが好きで、住職である叔父の着ている法衣や袈裟が好きでした。私がいつも着物を着ているのも当然その影響でして、お寺は私の原点です。

大人になってからはなかなか帰省する機会が少ない事もあって、お寺の空気や風景はそのまま子供の頃の記憶に繋がります。両足院の本堂に入ると、仏さまにお参りし、本堂の中を走り回り、昼寝をし、縁側で夏休みのドリルをしたり、法話に使われる黒板に絵を描きまくったりしていた当時の気分がよみがえりました。

まだ人が揃わず、なんとなくざわざわと座る場所が決まらない中、主催者の大田さんがなにやら忙しそうに立ち回っていました。小型のスピーカーのようなものを、人と人の間に置いてみては、回収しにきて、また別の場所に置いてみたり。なかなか位置が定まらないのかな?と思って見ていました。

あとで分かったことですが、それは人の動きに反応して音を発生させる装置だったのでした。だから、ざわざわとしている時にしかできないパフォーマンスだったんですね。

こちらが構える前にもう始まっている。というのが、この日のテーマを現していたように思います。

「音」の領域のことはまったく知識がないので素人の感想になりますが、「その場で起こっていること」というのがどのアーティストさんのパフォーマンスにも強く感じられて、音(音楽)というものはまったく「生」のものだな、と、改めて思ったり。

比べて、絵というものは、起こった「あと」であって、生ものではない。だから、作者が生きているか死んでいるかというのは、作品そのものには本来関係はない。(マーケット的には別として)

生きている人が生み出した、もしくは取り出した、今この瞬間に生まれて消えていく音と出会う体験をさせてもらってる、と強く感じました。

また、自然の中にある音を取り出して聴かせていただいて、自分が普段気づいていないもの、聴こえていないもの、見えていないものがこの世に普通にあるということを感じたり、いわゆる普通のライブコンサートとは違う音の体験がとても新鮮でした。

間には両足院の副住職、伊藤東凌さんに座禅指南をしていただきました。五感を徐々に研ぎ澄ませていけるよう順序立ててリードしてくださるので、とても分かりやすかった。

副住職さんがおっしゃっていた、「五感+1の六根を開いた状態」を実現できていたという自信はないけれど、普段より落ち着いて気持ちよくいられたのは確か。その後も、時々仕事の合間に椅子に座ったままやってみたりしています。

一緒に行った美術作家の夫は、絵をかいている時はいつもそういう状態だ、と言っていました。
「そういう状態」とは、「聞こえてくるもの、目に入ってくるもの(自分がかいてる絵)、におい、考えていること、ペンを握った感覚、全部オッケー!という状態で、世界の歯車の一部になった感じ」だそうで。
今まで、その感覚をうまく説明できなかったけれど、副住職さんがきれいに言語化してくださったような気がして嬉しかったそうです。
ちょっとうらやましい。

普段の自分の領域とはちょっと違う分野の催しに参加してみるというのは良いですね。
最近、そういうのがとてもおもしろいなと思っています。

タグ: , ,