余白についての考察
先日見た、東京都現代美術館の「マーク・マンダースの不在」と「ライゾマティクス_マルティプレックス」
本当に対照的な展示だった。
「マーク・マンダースの不在」
静寂。
ホワイトキューブの白い壁は、鑑賞者が考え、想像するための余白なんだと再認識した。
白というのは何もないのではなくて、RGBでいうとR:255 G:255 B:255で、無数の情報が詰まって飽和している状態ともいえる。
作品として形を取り、質量を持っているものの、その外に(見えないけれど)存在するもの。
そこに目を凝らすための白。
自分で考えるための余白。
逆に、目に見えない情報を感じられない白は余白ではなくて、ただの白い面だ。
剣道では、打ち込んだあとの「残心」ができていないと一本が入らないんだけど、余白とは残心の息遣いだという感じがする。
剣道では、意識した状態を持続しながら、相手の攻撃や反撃を瞬時に返すことができるよう身構えていることを残心と呼び、残心がなければ技が正確に決まっても有効打突にならない。
「残心」 Wikipedia
以前、喫茶店で仕事をしていたら、隣の席であるミュージシャンの方がCDジャケットの打ち合わせをしていて、「デザイナーさんが考えて選択した白と、自分がこれと言って適当に選んだ白は、仮に同じ色を選んでいたとしても、何かが違うはず」という話をされていたのを思い出した。
白には、他のどんな色よりも明確な理由が求められる。
でも、理由なんかない適当に選んだいいかげんな白が良い時もあるんだけど。
あと、残心の後の一瞬の空虚な白も良いな。
間抜けになる一歩手前みたいな白。
反対に、「ライゾマティクス_マルティプレックス」。
ずっと何か動いてる。何か鳴ってる。
光を多用するので基本的には暗闇がベースになっているけれど、とにかく隙間を埋める埋める。
パフォーマンスとパフォーマンスの間の4分間にも、カウントダウンが表示される。絶対に退屈させないぞというサービス精神にあふれた展示、という感じ。(マンダースの後だと特に)
この2つの展示を同時開催したのは、意図的なのかな。
今のこの現実世界ではないどこか違う世界に行きたいという欲求は共通してると思いました。
テクノロジーが見せる新しい世界と、一人の作家の頭の中にある別の世界。